読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016年5月10日(火) 雨 : アメニモマケタ

 昨晩、布団に中で考え事をした。考え事って程の事でもないけど、自分も頑張れるかな、と思った。そしたら興奮してきて、なかなか眠れなかった。この興奮がずっと続けばいいな。でもそんな事はないって事はわかっている。頑張れるかな、となって、頑張れなかったとなる。また頑張れるかな、となって、それを繰り返してきたから。興奮なんかに依存せずに、何にもない時にこそ、頑張らなくちゃ。

             Ω

 ここんとこ雨で、明日も雨の予報。散歩に行きたい気分なのに、気分だけが独り歩きしている。
 中学生の時は雨を楽しんでいたのを思い出した。雨で野球の練習が中止になると、路肩の水たまりをバシャバシャ歩いて、ユニフォームを濡らして帰っていた。当時は利害が一致していたからだけど、今なんて害しかない。だから楽しめなくなったんだと思う。いや、これだと雨が楽しかったってより、練習が中止になるのが嬉しかっただけな気がする。雨がそのまま楽しいなら、利害なんて言葉は使わないはずだから。楽しいって感情は、利害の外なのかも知れない。

             Ω

 小説のモチーフが頭の中で完成してきた。ずっと書かずに断片だけを集めていたのだけど、あと数ピース集まればパズルが完成する。現実の表側が煌々として明るいなら、その裏側の陰鬱として暗い面を書くつもり。この小説は自分の気持ちが乗ると思う。

             Ω

 小説を読んでいても、そこに作者がいない。その事が気になっている。かと言って、登場人物が自分自身で思考してもいない。登場人物は作者の傀儡として動いている。なのに、そこに作者を何も感じないのだ。なんだか、ぺたぺたしている。文学を娯楽としての捉えている人には受けるのかも知れないが、これを書いてどうなるんだろう、と思う。なぜその作者が書かなくてはいけないのだろう。その作者である必要なんてないんじゃないか。作者はそれについて少しでも考えたのだろうか。そんな事を考える。
 作者は登場人物に対して神の存在だ。作者の思いのままに登場人物を動かす事ができる。生かすも殺すも、何を言って何を言わないかも自由だ。そうして作者の操り人形として、登場人物はそれ以外の思考がないように振舞ってる。そこに矛盾を抱えていない。
 だが、そこに作者もいないとはどういう事なのだろう。登場人物を操っていながら、操っている本人がいない。作者が操っていながら作者がいない。残念ながら、この矛盾をまだ言語化できない。どうしてそうなっているのかわからない。

             Ω

 小説に自分自身を投影しながらも、登場人物は自分自身で思考しないといけない。
 この矛盾が書く事の難しさだ、と考えている。書く事は簡単なのに、書く事は困難だ。