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2016年5月09日(月) 雨 : モットモラシク

 
 ショウペンハウエルは、著者には三つのタイプがある、と言っている。第一に、考えずに書く者。第二に、書きながら考える者。第三に、執筆に取り掛かる時には、すでに思索を終えている者。この三つだ。そして、著書を読むに値するのは第三のタイプの著作者である、と言っている。
 私自身に当てはめてみると、第二のタイプだった。第三のように、書く前に考え終わるなんて器用な真似は出来ない。やろうとしていないだけだけど、それでも思索し終えて思想に辿り着いた頃には、最初に思索した事なんて忘却してしまう気がする。思索が繋がり合っての思想だから、その思想から導いてこれるのかも知れないけれど、なんだかまどろっこしい。
 だからと言って、何も考えずに書いているわけではなくて、話の道筋はある程度組み立ててから書くのだけど、私の場合、書く事が、そのまま考える事に繋がっている。何かを考える時、誰でも文章で考えているわけだから、思いもよらない所で勝手に派生していく。そういうわけで、わざわざ考えてから書く、じゃなくてもいいんじゃないかと思っている。
 そもそも何で第三のタイプがいいのかもわからない。自分の血肉で考え抜いた思想だからである、というような事をショウペンハウエルは言っているけれど、最終的に同じ思想に至るなら、何も問題ない気がする。誰かの著作を読んで、これは第三のタイプだ、とわかるわけでもない。わかるかも知れないけど、著作者がそう言っていない限り、推測の域をでないと思う。

               Ω

 もっともらしい事を、もっともらしく言うのが好きじゃない。例えば評論。だが、それが著書やあるいは書作者、読者に必要なのだろうという事もわかっている。
 不要なものは押し並べて存在し得ない。存在しているという事は、つまり必要だからなのだ。それは役に立たない、無駄だと誰かが言うその概念も、価値基準を明確にするという点において、非常に有益だ。役に立たないと判断する事で、それは役に立っているのだ。

               Ω

 この世に無駄が無かったなら、何に価値があるのかもわからない。
 それでもこれは無駄だろうと思うものがある、例えばホクロ。

               Ω

 今日はいつもより誘惑に支配されなかった。スマホを弄りたくなったり、テレビを観たくなったりしても、その行動は自分を何処へも連れて行きはしない、と呪文のように唱えた。そしたら自制できた。誘惑は外から来るものと思いがちだけど、誘惑の本体は自分自身なのだと思う。スマホスマホでしかないし、テレビもテレビでしかない。それが魅力的に映るなら、それは自分自身がそう見ているからで、それ自体ではない。
 少しずつでいい。ゆっくりでいい。豆苗が育つのを楽しみにするように、自分の成長を見守っていけたらいいと思う。なんでも性急さを求めがちだ。求めたって、速くなるでもないのに。それで疲弊して苦しめてるのは、自分自身だって場合もある。急いだって、何処にも行けない。