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2016年4月29日(金) 晴 : 人生という檻にいる。

―― 今日は、肌寒かった。薄手のセーターを着ていたのだけど、それでもひんやりとした。今日は動物園に行ったのだけど、電車の中では本を読んでいた。だからか、電車の中で気持ち悪くならなかった。何か別の事に集中するのがいいのかも知れない。意識の外にしておくのがいいと思う。考えては駄目だけど、考えては駄目だ、と考えても駄目なのだ。それだと、考えては駄目だ、と考えている事になるから。
 好きの反対は無関心と言うけれど、嫌いの反対も無関心なのだと思う。好きと嫌いはシノニムなのかも知れない。嫌いであるなら、まだ関心がある、という事だ。だから、嫌われる事は恐れなくていい気がする。そこに在るなら、私が在る。むしろ恐れるべきは、無関心でいられる事だ。そこにいないなら、私はいない。存在しないのだから。

―― 動物園は何年ぶりかもわからなかった。何度か行った事がある動物園なのだけど、変わったのか変わっていないのかすら、わからなかった。ゲートを潜るとまず、パンフレットを取った。そして見た。道なりに行けば、全ての動物を回れるようになっていた。
 フラミンゴの檻が見えていたから、そこから見始めた。フラミンゴの脚はポキッと折れそうなほど、細かった。ポッキーみたいだった。女の子はああいう脚に憧れるのかなあ、と思った。そうだとしたら、気が遠くなった。
 カバはお尻をこちらに向けて寝転んでいた。数分眺めて写真を撮った。もちろんお尻だった。テレビなんかでカバは獰猛な動物だ、と聞いた事があるけど、獰猛さは感じられなかった。その次はサイだった。サイは不在だった。
 鷲の檻の中には、餌の鼠が転がっていた。原型を留めているのもあれば、バラバラに裂かれた鼠もいた。生々しかった。鑑賞のための動物がいる一方、鑑賞のための動物の餌になる動物もいる。なんだか、動物の世界も残酷だな。もちろんそれは、人間によって生まれた残酷さなのだけど。鷲に生まれるか、鼠に生まれるかで、やはり何か決定的に違うのだろうな。鷲は羽を大きく広げて存在を顕示していた。その傍らで冷たく固まっている一匹の鼠を私はじっと見た。そして、一枚撮った。
 エミュー育児放棄をしていた。卵だったから、育児と言うより、育卵放棄かも知れない。こういう事は人間に限った事ではないのだな、と思った。エミューは水を飲んでいて、カラスは殻を突いていた。
 他にも象やライオンといった定番の動物がいたり、睾丸をこれでもかと顕示していたムフロンという、なんかよくわからん動物などもいた。オムロンでもパブロンでもない、ムフロン。睾丸の写真を撮った。
 これだけの動物をワンコインで見られるから、また来ようと思う。人工的なモノに囲まれていた所から一転、自然に囲まれた ―動物園だからもちろんそうなのだけど― 所だった。その変化に、なんだかそわそわした。睾丸を突然失くした気分になった。木々が擦れる音、太陽が切り取る木々の揺れる影。とても気持ちがよかった。ひらけた気がした。

―― 何かを決定的に分かつのは、人間にも言える事だ、と思う。何処に生まれるか、誰の所に生まれるか、それは確実に何かを決定付ける。平等なんて、いずれ死ぬ事の他に無いのだと思う。この人工的な世界に平等という言葉があるという事が、すなわち平等がないという事の証左だ。どんな享楽に耽っていようと、いずれ死ぬ。それだけが不遇な者の、せめてもの救いだ。
 だが不遇に託っていては駄目だ。自分が自分で自分の人生を負わなくてはいけない。自分の人生に、責任を負わなくてはいけない。この人生は誰の人生でもない、自分の人生だ。この人生は誰にもどうにも出来ない。どうにか出来るのは、この自分しかいない。どうにかしよう。でなきゃ、どうにも出来ないのだ。世界という檻の中に私はいる、その檻の中にまた、人生という檻がある、その中に私がある。