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2016年4月27日(水) 雨 : さよなら、今日    

今日

―― 普段は日記帳に手書きで書いているのだけれど、1ページじゃ足りないと思っても、文章を付け足したいって思っても、なかなか修正する事ができないから、ここでも書いていこう。打った方が速いし、打った方が思うままに書けそうな気がする。手書きは時間がかかる。修正できても、読み辛くなる。それに比べたら、ここは消した跡が残って読み辛くなるということはない。付け足すのも自由だし、文章を入れ替えるのも容易だ。ただ、手書きに比べると、無機質には感じる。自分が書いているのに、自分が書いていないような感触がする。文章がよそよそしい。何事にも得手不得手があるから、どちらが自分に合うのか、書きながら確かめよう。

―― 豆苗を育てはじめた。育てる、と言っても水を換えるだけで、あとは放って置いたら勝手に成長する。芽が出るのが、楽しみだ。明日が楽しみになる。この楽しみを、人生においても感じられたら、と思う。人生に必要なのは、この楽しみな気がする。性急さを求めて、成長を楽しむ余裕がない。明日死ぬかもしれない、それもそうなのだけど、せかせかして、何も楽しんでいない。それでは本末転倒だと思う。長い人生が、そのまま良い人生とは限らない。人生において重要なのは、その長さではない、という事を感得すべきなのかもしれない。人生を楽しまないのは、罪だ。

―― 新山詩織、いいな、と思う。世界を映していながら、世界を映していない、あの目が好きだ。空気が漏れる擦れた声もいい。『デイ・ドリーム・ビリーバー』のショートカバーを聴いて、いいな、と思った。フルが聴きたい。新山詩織がいれば、生きていける気がする。
 能年玲奈がいれば生きていける、西内まりやがいれば生きていける、広瀬すずがいれば生きていける、を経てきて、今は新山詩織がいれば、生きていける。なんだか誰もいなくても、生きていけそうな気がする。とにかく、新山詩織に注目しよう。

―― 日記を書いた後、いつも『アナイス・ニンの日記』を読んでいる。言葉を自分のものにしているな、と感じる。アナイス・ニンの日記を読むと、自分の書いた日記を破りたくなってしまう。自分の書くものは、御玉杓子みたいに貧弱だ。でも書く事は、いい事だ、と思う。アナイスも、アンネも、なぜ日記を書いたのかを考えると、書く事は自己との対話であったのだろうし、なにより書く事は自己慰安であったからだと思う。ただ慰安に終始してはいけないと思う。それだけでは自慰行為だ。ただ、自分を癒せもしない文章なんて、誰も癒せやしない。そう思う。