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2016年5月03日(火) 晴のち雨 : サルマネ

今日

―― 今日はCDとDVDを売ってきた。4000円くらいになるかな、と予想していたのだけれど、2700円だった。落胆してしまった。パンダに抱きつかれた気分になった。でも帰り際は、「ありがとう」が言えた。いつもタイミングを逃すから、言えなかった、と帰り道でくよくよするのだけど、今日は言えた。いつも会計時に言えるようになれたらいいな。
 お客様が神様なんて、そんなの、あるわけない。自分はお客様だなんて、驕れない。威張れない。そんなちゃっちいもので自分を大きく見せようなんて、ちっちゃい。恥ずかしい。公然と全裸で歩く気分になる。こちらはお客としてお金を払う、お店は商品・サービスを提供する。それが対価であるし、それで等価だ。つまり、立場は対等なのだ。そこに驕る理由も、威張る理由も、ない。

―― 小説を書いている。原稿用紙5枚目で行き詰った。ふと、書こう、と思って机に向かって、最初の数行を書いた。そしたら行き詰った。何を書こうと考えずに書いてきたのだけど、書いた数行を読むと何を書こうとしているか、なんとなくわかった。ここから考えて書いていく。
 だんだんとわかってきたのだけど、私は描写が苦手だ。自分の書き方の基本は「語り」だからかも知れない。このまま語りで書いていこうか、迷っている。それで問題ない気もする。だが苦手を苦手のままにしていては駄目だ、と思う。それは短編の時にでも練習したらいいか、とも思っている。だから、このまま語りでいこうか。
 自分の書いた小説を読んでみると、誰に影響を受けているかわかってしまう。思想は別にして、表面はその作家の文章みたいになる。それも一人だけじゃなくて、その時々に読んでいる作家の文章みたいになる時もある。みたいに、だから、本物ではない。
 このままだと二番煎じだ。私らしさがない。私は自分の文章を会得しないといけないだろう。でなけりゃ、私の小説と言えない。誰の小説でもない。猿真似が自分らしさなら、もう書くのはやめよう。書いてはいけない。  

2016年5月1日(日) 晴 : カラスは使者なのか。

今日

―― 最近、夜が怖い。明日が来ないんじゃないかと考えてしまう。あんなに夜中が好きだったのに。このまま眠ってしまえば、もう朝日を浴びることは出来ないんじゃないか、そう考えてしまうのだ。好きだから夜更かしするっていうより、今は怖いから夜更かししている。朝になるまで起きていれば、区切りが無くて安心だから。
 今日はカラスが朝から異常に多かった。カラスの鳴き声で目が覚めた。カラスは死期が近い人の所に来るって記事を、いつぞや読んだ。その話を思い出して、もしかしたら私なんじゃないかと考えた。カラスの鳴き声が五月蠅いと感じているのは私だけなのじゃないか、私だけにこの鳴き声が聞こえているのじゃないか、と。
 もし迎えにきたなら、追い返さないといけない。まだまだ死ねないのだ。生きる。家族の事を考えると、そうなってはいけない。甥っ子達が、夏に産まれる姪っ子が、高校生、大学生、大人になるのを見届けるまでは、生きないといけない。欲しいモノを買ってあげたい、旅行にも連れて行ってやりたい、人生についても、まだまだ語らい合わなくちゃ。
 死について考える。想像もつかない。目の前にある本の作者の殆どは亡くなっている。夏目漱石太宰治小林秀雄。死について彼らは何も語らない。圧倒的な無だ。それを思うと、生きるのが怖い。
 これが杞憂ならいい。考えすぎならいい。だがもし、そうであるなら、いったい何をすればいいだろうか。遺言でも書いておけばいいのか。いや、それはそれで、現実味が帯びて怖い。
 人生は0か100でいい。今は中地半端だ。トマトのへたみたいな人生だ。そんな人生で終わりなくない。トマトになるか、あるいはへたにすらなってはいけない。
 生きなくちゃ。

2016年4月29日(金) 晴 : 人生という檻にいる。

今日

―― 今日は、肌寒かった。薄手のセーターを着ていたのだけど、それでもひんやりとした。今日は動物園に行ったのだけど、電車の中では本を読んでいた。だからか、電車の中で気持ち悪くならなかった。何か別の事に集中するのがいいのかも知れない。意識の外にしておくのがいいと思う。考えては駄目だけど、考えては駄目だ、と考えても駄目なのだ。それだと、考えては駄目だ、と考えている事になるから。
 好きの反対は無関心と言うけれど、嫌いの反対も無関心なのだと思う。好きと嫌いはシノニムなのかも知れない。嫌いであるなら、まだ関心がある、という事だ。だから、嫌われる事は恐れなくていい気がする。そこに在るなら、私が在る。むしろ恐れるべきは、無関心でいられる事だ。そこにいないなら、私はいない。存在しないのだから。

―― 動物園は何年ぶりかもわからなかった。何度か行った事がある動物園なのだけど、変わったのか変わっていないのかすら、わからなかった。ゲートを潜るとまず、パンフレットを取った。そして見た。道なりに行けば、全ての動物を回れるようになっていた。
 フラミンゴの檻が見えていたから、そこから見始めた。フラミンゴの脚はポキッと折れそうなほど、細かった。ポッキーみたいだった。女の子はああいう脚に憧れるのかなあ、と思った。そうだとしたら、気が遠くなった。
 カバはお尻をこちらに向けて寝転んでいた。数分眺めて写真を撮った。もちろんお尻だった。テレビなんかでカバは獰猛な動物だ、と聞いた事があるけど、獰猛さは感じられなかった。その次はサイだった。サイは不在だった。
 鷲の檻の中には、餌の鼠が転がっていた。原型を留めているのもあれば、バラバラに裂かれた鼠もいた。生々しかった。鑑賞のための動物がいる一方、鑑賞のための動物の餌になる動物もいる。なんだか、動物の世界も残酷だな。もちろんそれは、人間によって生まれた残酷さなのだけど。鷲に生まれるか、鼠に生まれるかで、やはり何か決定的に違うのだろうな。鷲は羽を大きく広げて存在を顕示していた。その傍らで冷たく固まっている一匹の鼠を私はじっと見た。そして、一枚撮った。
 エミュー育児放棄をしていた。卵だったから、育児と言うより、育卵放棄かも知れない。こういう事は人間に限った事ではないのだな、と思った。エミューは水を飲んでいて、カラスは殻を突いていた。
 他にも象やライオンといった定番の動物がいたり、睾丸をこれでもかと顕示していたムフロンという、なんかよくわからん動物などもいた。オムロンでもパブロンでもない、ムフロン。睾丸の写真を撮った。
 これだけの動物をワンコインで見られるから、また来ようと思う。人工的なモノに囲まれていた所から一転、自然に囲まれた ―動物園だからもちろんそうなのだけど― 所だった。その変化に、なんだかそわそわした。睾丸を突然失くした気分になった。木々が擦れる音、太陽が切り取る木々の揺れる影。とても気持ちがよかった。ひらけた気がした。

―― 何かを決定的に分かつのは、人間にも言える事だ、と思う。何処に生まれるか、誰の所に生まれるか、それは確実に何かを決定付ける。平等なんて、いずれ死ぬ事の他に無いのだと思う。この人工的な世界に平等という言葉があるという事が、すなわち平等がないという事の証左だ。どんな享楽に耽っていようと、いずれ死ぬ。それだけが不遇な者の、せめてもの救いだ。
 だが不遇に託っていては駄目だ。自分が自分で自分の人生を負わなくてはいけない。自分の人生に、責任を負わなくてはいけない。この人生は誰の人生でもない、自分の人生だ。この人生は誰にもどうにも出来ない。どうにか出来るのは、この自分しかいない。どうにかしよう。でなきゃ、どうにも出来ないのだ。世界という檻の中に私はいる、その檻の中にまた、人生という檻がある、その中に私がある。
 

2016年4月28日(木) 雨 : 千代千代

今日

―― 今日は、筆写した。夏目漱石の文鳥。良い文章、良い小説は、書き写したくなる。こんな風に書けたらな、と思いながら、書き写す。書き写しても、そうはならない。そうなってはいけないのかも知れない。これは自分で体得しなきゃいけないものな気がする。形式があって、方法論があって、それに忠実なだけでは、一向にその先へは行けない。型も大事だとする自分がいる一方、型に嵌ったままでは、同じになってしまう。形式、方法の先の先、ずっと先まで行くと、自分自身に突き当たる。森羅万象の最後には、自分自身しかいないのだと思う。どうにかするのは、自分しかいない。
 まだ筆写の途中なのだけど、筆写する事が一番の読みだと思う。筆写している時、私は夏目漱石になっている。そういう気持ちで、私は写している。筆写している時間は、良い時間だ。

―― 岩井俊二監督の『花とアリス』を観た。外国の映画ばかり観ていて、邦画はあまり観ないのだけど、好きな雰囲気だった。シリアスな教室の場面で、その窓からは巨大なアトムのバルーン。舞台上ではお尻を出して、舞台袖では真面目な会話。いくつか疑問な所もあったのだけれど、このとぼけた、頓狂なのは好きだった。カーテンのレース越しに、淡く見ている気分だった。

―― 明日の午後は、動物園に行く。午前中に古本祭りに行こうかな、と思っている。電車に乗っていたら気持ち悪くなるから、なんだか億劫で、ほんとは腰が重い。背中にシロクマを背負っている気分になる。だけどこの考えは改めたほうが良いのかも知れない。日頃、文章を書く時は、ひたすらに引き籠っている。ひたすらに書いて、書いて、書いている。それでは何も、書けない。そう思いはじめた。何かを書くという事は、すなわち世界を読むという事だ、と思う。ある小説とは、作家によって読破された世界なのだ。そのためには、世界を知らなきゃいけない気がする。世界を見なきゃならないだろう。ただ、ここで間違ってはいけないのが、世界を知ったからといって、世界を見たからといって、そのままその世界を書き写す事が、書く事では無いと思う。こうして書いてきて、今、わくわくしている。昂っている。明日は、良い日にしよう。

2016年4月27日(水) 雨 : さよなら、今日    

今日

―― 普段は日記帳に手書きで書いているのだけれど、1ページじゃ足りないと思っても、文章を付け足したいって思っても、なかなか修正する事ができないから、ここでも書いていこう。打った方が速いし、打った方が思うままに書けそうな気がする。手書きは時間がかかる。修正できても、読み辛くなる。それに比べたら、ここは消した跡が残って読み辛くなるということはない。付け足すのも自由だし、文章を入れ替えるのも容易だ。ただ、手書きに比べると、無機質には感じる。自分が書いているのに、自分が書いていないような感触がする。文章がよそよそしい。何事にも得手不得手があるから、どちらが自分に合うのか、書きながら確かめよう。

―― 豆苗を育てはじめた。育てる、と言っても水を換えるだけで、あとは放って置いたら勝手に成長する。芽が出るのが、楽しみだ。明日が楽しみになる。この楽しみを、人生においても感じられたら、と思う。人生に必要なのは、この楽しみな気がする。性急さを求めて、成長を楽しむ余裕がない。明日死ぬかもしれない、それもそうなのだけど、せかせかして、何も楽しんでいない。それでは本末転倒だと思う。長い人生が、そのまま良い人生とは限らない。人生において重要なのは、その長さではない、という事を感得すべきなのかもしれない。人生を楽しまないのは、罪だ。

―― 新山詩織、いいな、と思う。世界を映していながら、世界を映していない、あの目が好きだ。空気が漏れる擦れた声もいい。『デイ・ドリーム・ビリーバー』のショートカバーを聴いて、いいな、と思った。フルが聴きたい。新山詩織がいれば、生きていける気がする。
 能年玲奈がいれば生きていける、西内まりやがいれば生きていける、広瀬すずがいれば生きていける、を経てきて、今は新山詩織がいれば、生きていける。なんだか誰もいなくても、生きていけそうな気がする。とにかく、新山詩織に注目しよう。

―― 日記を書いた後、いつも『アナイス・ニンの日記』を読んでいる。言葉を自分のものにしているな、と感じる。アナイス・ニンの日記を読むと、自分の書いた日記を破りたくなってしまう。自分の書くものは、御玉杓子みたいに貧弱だ。でも書く事は、いい事だ、と思う。アナイスも、アンネも、なぜ日記を書いたのかを考えると、書く事は自己との対話であったのだろうし、なにより書く事は自己慰安であったからだと思う。ただ慰安に終始してはいけないと思う。それだけでは自慰行為だ。ただ、自分を癒せもしない文章なんて、誰も癒せやしない。そう思う。