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2016年6月13日(金) 雨のち晴 : コウフク ナ クニ × ゼツボウ ノ クニ


◆ 久しぶりの更新になってしまった。この間、特に大きく変わった事は無いけれど、小さくは変わっているのだと思う。それが自覚的にでも、無自覚的にでも。少なくとも、僕は更新していなかった日数分だけ、たしかに老けた。パソコンを開いて思い出したから、思い出したかのように書いているのだけど、毎日書く事を自分に課そうと思っている。書けるときに書いて、書けない時に書かないでは、後退していくだけだから。書けない時にこそ、書く。成長するには、余裕のないところから始めなければいけない。

◆ 最近、旅行記を読んでる。旅行記と言っても、観光名所を巡るような旅行ではなくて、発展途上の国や地域を旅した記録。だから旅の記録と言った方がいいのかも知れない。僕が住んでる国、つまり日本は、あるいはその生活は、発展途上の人々 ―全員と言わないまでも― にとって、希望とするものなのだと思う。食料はあって、水もあって、娯楽もある。不足なんて無い。だけど、僕にとって、それはデフォルトだった。初期設定としてあった。幸福な事なのだろうけれど、だからよくわからない。有難みは無くしてから真に実感する。
 幸福な国には一つだけない。希望だ。

2016年5月19日(木) : ケツラク

◆ バスキアの作品が印刷されたクッションカバーが売り切れていた。今更な私も悪いが、やはりショックだ。再入荷の予定もないようだし、もはやどうする事もできない。もしこのブログ記事を見る事が ―たとえ数年後であっても― あったなら、再入荷を是非とも検討して頂きたい。アマゾンさん。これが無い人生を考えると、なんだか海水の無い海の気分になる。

◆ ペンと紙があれば文章は書ける。だが、それだけでは物語は書けない。現代的に言い直すなら、こうでもいい。手とパソコンがあれば文章は書ける。だが、それだけでは物語は書けない。私はもっと世界を読まなくちゃいけないと思う。どんな構造をしていて、どんな仕組みなのかを、もっと認知しなくちゃいけない。世界に対する認知が欠落した物語を読んで、いったい何になる。この言葉には、もう一つの言葉が繋がる。―だが、ありのままの世界を写実して何になる。

◆ 誰かが何もしていない時こそ、何かをしなくては、と思う。誰かが何かしていない時にこそ何かして、何もしていない時にも何かする。そんな事をしていたら疲弊してそのうちぶっ倒れるんじゃないかと思うが、日頃腰が重い怠慢な私にはそれくらいしたほうがいい。それでなくても、世界は生きているだけで消耗だ。息をするのだって疲れる。

2016年5月17日(火) 晴 : コメカミ


◆ 昨日の夜はstrong zeroの青リンゴを飲みながら、『ラヴソング』を観ていた。普段お酒を飲むのは友人と飲みに行くときくらいで、家ではあまり飲まないのだけど、お酒を飲みながらドラマを観るのも乙なものだ。若者が苦難にぶつかりながら成長していく姿は、お酒の肴になる。福山雅治との恋愛ドラマならあんまり観たくないな、と最初は思っていたのだけど、そこが焦点ではなさそう。それぞれが抱える過去との決別、あるいは過去の清算をして成長する、そんな話だと思う。だから、未発表のままだった過去の曲を、福山雅治扮する神代先生がさくらの新曲として使用したのは、進むためだと思う。ただ亡くなったボーカルを重ねているだけかもしれないが、それが結果として進む事を意味するのだと思う。周囲の人からするとやり方は乱暴なのかも知れないが、あの行動は少なくとも過去から目を背けてはいない気がする。
 ところで、山口紗弥加扮する渡辺涼子の必要性がまだわからない。今後の展開のキーパーソンになるのかも知れないが、空一を弄ぶ大人のお姉さん止まりなら、どうなのだろう。過去に何があったのか、そのエピソードも今後挟むだろうし、あんまり話を詰め込みすぎると中途半端で浅くなりそうな気がする。ま、そのくらい今度の展開を楽しみにしているってことなのだけどね。
 高良健吾が出演していた『いつ恋』もこの『ラヴソング』も、若者が頑張る姿はそれだけで刺激になる。そして、私も頑張ろうってなる。こんな事を言うと壮年の男性って感じがするけど、まだまだ私も20代だ。人生を見定めるにはまだ早い。まだまだこれからだ。

◆ 『愛すれど心さびしく』を観た。DVD化もされていなくて今では視聴が困難なのだけど、DVD化すればいいのに、と思う。差別用語などの事情もあって、なかなか踏み切れないのかも知れないけれど、言葉なんてただの言葉でしかない。差別用語を無くそうとしたところで差別が無くなるでもない。差別は言葉にあるのではなく、人間の内にあるのだから。差別用語を排除しようしようとする意識が、かえって人々の差別を助長してしまうのだと思う。
 聾唖者のシンガーは人々に慕われ、私を理解してくれる人と思われていた。身内にも内緒だった話を彼には話したくなってしまう。彼もちゃんと話を聞いてくれる。そんな彼は自らの悩みは打ち明けなかったし、人々も悩みなんて無いと思っていた。人々にとって彼は、救済してくれる神のような存在だった。ところが最後、彼は自殺する。自らの蟀谷を打ち抜いた銃声は、彼の悩みが発した最後の叫喚だ。なにより彼が人間であったことの証左なのだ。彼は優しすぎた。

2016年5月14日(土) 晴 : ミチビク


◆ 今日はとてもいい天気だった。そして、暑かった。甥っ子と何回か休憩を挟みながら外遊びしたのだけど、気持ち3回は干乾びていた。家に戻ると烏龍茶を飲んだ。氷を入れて、きんきんな飲んだ。それでもなんだかぼけーっとなっていた。右鼻の奥につーっと何かが伝う感覚があったから、鼻に指を突っ込んでみたら、鼻血だった。今日はやはり暑かったんだな。家に帰ってからお風呂に入るのが億劫だった。でもさっき入って、さっぱりした。たまにお風呂が嫌になる時もあるけど、お風呂に入ればやっぱり良いになる。

◆ 今日は目が覚めて、家の周辺を散歩したんよ。前日から明日の朝は散歩しようと決めていた。今、私に必要なのは、意識的に選択する事だと思う。ちょっと目を離したらすぐ怠惰に連れられて行くから、自分で自分の道を歩かないといけない。さもなけりゃ、生きてたって、死んでるようなものだから。これは決して自分を束縛するものではなくて、自分の人生を望む人生にするためのものだ。
 自分を真に監視できるのは、自分しかいない。どれだけ私が頑張ったか、どれだけ私が怠惰だったかを私は一番知っている。私をすぐそばで見られるのは、私自身なのだ。私が怠惰や欲望に導かれていたら、私が私自身の人生へと導きなおなきゃならない。いつだって私は、人生の先頭を歩いて導いていないといけない。その肝心な私が、怠惰であってはならないのだ。

◆ 誰かと会話するのは、やっぱり楽しい。誰かと意思疎通ができるのは、やっぱり嬉しい。人に対してあまり良い思い出が無いけれど、最近そう思えてきた。今日になって、その気持ちが強くなった。もっとこう言えばよかったな、こう接すればよかったなが増えてきたのは、いい傾向だと思う。これも甥っ子とか近所の子どもと遊んだり、会話をしたりしているお蔭かも知れない。ありがたや。

2016年5月10日(火) 雨 : アメニモマケタ

 昨晩、布団に中で考え事をした。考え事って程の事でもないけど、自分も頑張れるかな、と思った。そしたら興奮してきて、なかなか眠れなかった。この興奮がずっと続けばいいな。でもそんな事はないって事はわかっている。頑張れるかな、となって、頑張れなかったとなる。また頑張れるかな、となって、それを繰り返してきたから。興奮なんかに依存せずに、何にもない時にこそ、頑張らなくちゃ。

             Ω

 ここんとこ雨で、明日も雨の予報。散歩に行きたい気分なのに、気分だけが独り歩きしている。
 中学生の時は雨を楽しんでいたのを思い出した。雨で野球の練習が中止になると、路肩の水たまりをバシャバシャ歩いて、ユニフォームを濡らして帰っていた。当時は利害が一致していたからだけど、今なんて害しかない。だから楽しめなくなったんだと思う。いや、これだと雨が楽しかったってより、練習が中止になるのが嬉しかっただけな気がする。雨がそのまま楽しいなら、利害なんて言葉は使わないはずだから。楽しいって感情は、利害の外なのかも知れない。

             Ω

 小説のモチーフが頭の中で完成してきた。ずっと書かずに断片だけを集めていたのだけど、あと数ピース集まればパズルが完成する。現実の表側が煌々として明るいなら、その裏側の陰鬱として暗い面を書くつもり。この小説は自分の気持ちが乗ると思う。

             Ω

 小説を読んでいても、そこに作者がいない。その事が気になっている。かと言って、登場人物が自分自身で思考してもいない。登場人物は作者の傀儡として動いている。なのに、そこに作者を何も感じないのだ。なんだか、ぺたぺたしている。文学を娯楽としての捉えている人には受けるのかも知れないが、これを書いてどうなるんだろう、と思う。なぜその作者が書かなくてはいけないのだろう。その作者である必要なんてないんじゃないか。作者はそれについて少しでも考えたのだろうか。そんな事を考える。
 作者は登場人物に対して神の存在だ。作者の思いのままに登場人物を動かす事ができる。生かすも殺すも、何を言って何を言わないかも自由だ。そうして作者の操り人形として、登場人物はそれ以外の思考がないように振舞ってる。そこに矛盾を抱えていない。
 だが、そこに作者もいないとはどういう事なのだろう。登場人物を操っていながら、操っている本人がいない。作者が操っていながら作者がいない。残念ながら、この矛盾をまだ言語化できない。どうしてそうなっているのかわからない。

             Ω

 小説に自分自身を投影しながらも、登場人物は自分自身で思考しないといけない。
 この矛盾が書く事の難しさだ、と考えている。書く事は簡単なのに、書く事は困難だ。